いいお父さん

今日は久しぶりに長い日記です。
研修医の頃にかかわった患者さんの家族に偶然お会いした話をしようと思います。
研修医の頃の病院に資料を取りに行ったら、ちょうど外来に奥さんが来ていました。
「今、一緒に歩いて散歩できるくらいまで元気になりました」。
歩けるなんて・・・それは最初を知る私たちには、信じがたい奇跡のように感じられました。
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浜野さん。
生死をさまよう病気だった。
会社で倒れて運ばれたから、連絡を受けた奥さんも取りあえず病院に飛んできた。朝、元気に送りだした夫が、動けない体で横たわる。その場で手術が決定され、奥さんはしゃべれない患者さん本人に代わってアレルギーについて答えたり、同意書にサインしたり。
奥さんは落ち着いて見えたけど、思えばあまりに悲しくて、不安で、声も出せないくらい緊張していたのだと思う。
ところで夫婦には大河くんという小学生の息子がいた。浜野大河。もちろん仮名だが、本名もこれくらいスケールの大きい名前だった。核家族で、近くに預けられる親戚もおらず、引っ越してきたばかりで近所の方にも頼れない。奥さんは一旦家に帰り息子を連れてきた。小学校4年生。そろそろ他者との関わりが分かり始め、お父さんやお母さんのことも「好き」だけじゃなくて「大切」に思える、ちょうどそんな頃。小さな手のひらが長時間の手術の間、どんなにか奥さんの支えになっただろう。そしてそのあと今も続く長い闘病生活を支える重要な一員でもある。
手術は無事終わっても、病気が病気だけに後遺症は覚悟しなければならない。意識障害と、半身のまひ。そして浜野さんの場合は言語障害が残った。リハビリが不可欠だった。
早くから耳元で「旦那さーん」「パパー」と呼ばれ続けて、浜野さんは目を開けた。車椅子に座れるようになると、毎週大河君が力強くパパの車椅子を押して、時には病院の外まで散歩するようになった。
もちろん奥さんはいつも前向きなわけではなかった。浜野さんは奥さんのことを分かっているのかも分からない状態だったし、どれくらい回復するのか主治医からは希望の持てる説明はされないし、これからの闘病生活の方が長いし、先のことを考えると押しつぶされるほどの不安が押し寄せる。車椅子に乗れるようになってからは特にその不安が強くなり、毎日師長の前で泣いてから病室に入って行ったという。
言語のリハビリも少しずつ実り始め、エレベーターの行きたい階のボタンを押したり、食べたい物を指差すようになった。
でも車椅子に乗るのも全身を抱きかかえないといけないし、話すこともほとんどできない。
言いたいことも言えないどころか、私たちの話すことを半分くらいしか理解できない状態だったと思う。
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ちょうど私もローテーションの時期で、さらに病院自体も転勤となってしまったが、そのすぐ後に浜野さんは転院していったそうだ。リハビリを本格的にやるために。転院の朝、奥さんが主治医の先生に「一時は助けてくれない方が良かったと思うときもあったけど、今は感謝しています。家族みんなで頑張ります」と笑顔で言ってくれたそうだ。
それでも最初の状態が結構深刻だっただけに、回復には早い段階で限界が来るのではないか、と主治医の先生も思ったそうだ。主治医の先生はもう医者を20年以上やっている先生だから、今までに同じような患者さんを何人も診ている。だからだいたい予想は、良くも悪くも大きく外れることはない。
・・・と思っていた。ところが、冒頭のとおり。
確かに実際私は現在の浜野さんにお会いしていないけれど、奥さんが嘘をついているとも思えない。本当に杖を使って自分の足で歩いているのだろう。冗談を言ってみんなを笑わせる「いいお父さん」をしているのだろう。子煩悩だったそうだから、家族に囲まれて過ごす日々がどれだけ大切か、よく知っているだろう。
奥さんは浜野さんと一緒に釣りをするのが新しい趣味になったとのこと。そんなことを話す奥さんは本当に幸せそうだった。
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人間はこうして医者も予想できない力を秘めているんですね。病気をする前までと全く変わりなく回復するのは難しいとしても、感動を持って日々を過ごせることは本当に素晴らしいと思います。
いつか街中で「やぁ!」と声をかけてくれる日を、心待ちにしています。